私たちのあゆみ
善通寺市とともに
伏見樹脂株式会社は香川県丸亀市にて設立後、
縁あって1972年に善通寺市に移転し、本日まで歴史を刻んでまいりました。
善通寺市は弘法大師 空海が誕生の地として、全国的にも知られています。
また、香川県の西北部に位置する瀬戸内海気候で、冬季も比較的暖かく安定しており、のんびりした過ごしやすい地域です。
善通寺市を通していただいた数々のご縁を大切に、この地に根付き、私たちが成長することで、
地域へ貢献できるよう精進してまいります。
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資本金2,000万円にて香川県丸亀市に設立
LD(低密度ポリエチレン)米袋の製造販売を開始当時の株式会社伏見製薬所の社長伏見毅一と宇部興産株式会社(現UBE株式会社)中安閑一氏が大学の先輩後輩だったことから、二社の合弁会社として設立。伏見毅一が初代社長として就任する。
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香川県善通寺市(現本社所在地)に新工場完成、移転
あの頃の話その① 一糸乱れぬ「ペコペコ、パンパン、 ペコ」の秘密
伏見毅一が、伏見製薬所に金毘羅宮の分社を祀ったときに「伏見樹脂も祀れ」 の鶴の一声で、 琴平農園からドバーッと職人がやってきて、 分社を建てた。 ご神体は石。 毅一の 「毎朝お参りせぇ」との言葉通りに、 朝礼時に社員全員が真面目に金比羅山に柏手を打って頭を下げてお参りしていた。 毎朝のお参りのおかげで、 社員旅行で伊勢神宮に参ったとき、社員が整列して、 本殿で 「ペコペコ、パンパン、 ペコ」のお参りをすると、めちゃくちゃ上手で、 全員の作法が揃っていて、周りの注目を浴びたとのこと。
あの頃の話その② クスノキの生命力が縁起となり事業発展!?
金比羅宮の分社を建てたときに「木を植えたらええんちゃう、枯れてもええわ」 という軽いノリで深く考えずにクスノキを植樹。すると予想に反してみるみるうちに根付いてしまい、当時のスタッフは 「こんなはずじゃなかった、 マジで?」 らしい。
あの頃の話その③ 善通寺市から「早よせい」
善通寺市役所から、伏見製薬所が善通寺市上吉田町 (現在の会社住所地) に土地を購入して使用することになった。 しかし、伏見製薬所がなかなか動かなかったので、 痺れをきらした善通寺市が 「早よせい」とせかしたらしい。 困った製薬所が 「ほんなら樹脂に行かそう」 となり、会社設立時は丸亀市塩屋町に社屋があったが、 1972年 (昭和47年)に現在地に移転した。
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HD(高密度ポリエチレン)製品の製造販売を開始
あの頃の話その④ オイルショックは営業無用!
1970年代のオイルショックの際は値上がりが時間単位。 善通寺から高松に行って帰ってきたら(車で往復約2時間)、凄い値段になっていることが度々あった。問屋や取引先がやって来ては、社内にある廃棄フィルムや原反を全部持って帰って倉庫内がすっからかんになることも日常茶飯事。製品を作ると驚くほど高値で引き取ってくれた。
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透明HD製品の製造販売を開始
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アルピネ再生機の導入→第二工場にオブジェとして残る
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BOXティシュ取出窓用ポリエチレンの製造販売を開始
スプーン用連袋の製造販売を開始あの頃の話その⑤ ちぎりたくなるスプーン連袋
透明HDでスプーンを作るキッカケは、ひとつのクレームがあったから。 消費者から「異物があった」と食品メーカーにクレームが入り、 食品メーカーが調べても該当する原因もなく、よくよく調べるとスプーン袋のフィルムの欠片だった。 当時はLD原料を使用してフィルムを作っており (LD フィルムは柔らかく伸びがいい性質)、 スプーンを袋から出す際、フィルムが伸びてスプーンの先に残ったフィルム片が食品に入った。 スプーンの商権が飛んだら大変だということで、いろいろと試作したが、どれも上手くいかなかった。 一か八かで透明HDという新しい原料を使うことにした。HDは固く不透明だが、 透明HDはHDの特性を残しつつフィルムが透明になる。 透明HDスプーン連袋の試作品を作ってお客さんに持って行くと、プレゼン中ずっと、先方担当者はスプーン連袋をちぎっていた。 諦めかけていたところ、なんとOKだった!びっくり!
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資本金を6,400万円に増資
あの頃の話その⑥ ティシュを支える「窓フィルム」開発秘話
最初のティシュケースの取出し口は何も工夫していない状態。ティシュケースからティシュを取出した時の紙が擦れる音が不快というクレーム、また最後に残ったティシュが箱に落ちて取り出せないというクレームがあったのが開発のキッカケになる。 とある箱メーカーから取出し口にフィルムを貼りたいので、音や取出しがスムーズにいくフィルムを作ってほしいと依頼があった。 窓貼り機でティシュペーパー用の紙箱に貼り付けていくが、 高速で原反が流れるので、 偏肉やタレがあると窓の位置からずれてしまう。原料や温度設定を変えて何度も何度も試作を繰り返し完成させた。
あの頃の話その⑦ ティシュを支える「持ち手フィルム」開発秘話
最初はHD Uバックからスタートする。 内職のお姉さんが5個並べた箱をUバック(ポリ袋)にひとつずつ手詰めしていた。効率が悪いということで、自動包装機で5個ティシュを包むようになる。 しかし、5個ティシュをフィルムで包装しただけでは、持ち運びに不便ということで、 フィルムの持ち手を作るようになる。 手になじむようにLL+LD混合フィルムを使用して現在のスタイルになった。 また、原料高騰の際には、いかにフィルムを薄くするか、 薄くしても強度もあるフィルムの開発を追求する。
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伏見製薬株式会社の合成樹脂販売部を統合
あの頃の話その⑧ 転機の心中がやがて飛躍の礎に
2000年(平成12年)に「伏見製薬合成樹脂販売部」と「伏見樹脂」が統合することになった。 それまでは、伏見樹脂はフィルムを作るのみの会社で、販売は伏見製薬が担っていた。 合成樹脂販売部の営業社員4名は会社が変わることに戸惑いがあり、伏見製薬に残ることに一縷の望みをかけて当時の上役に 「わしら、伏見製薬に残ってやることありますか」と聞くと「ない」と、にべもなく言われて、伏見樹脂と心中することに決めた。
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スパウト付き袋の製造販売を開始
あの頃の話その⑨ はじめは認知度が低く苦しい戦いに
あるお客様からの「ブロー成形品を使用したバックインBOXをスパウト付きナイロンポリ袋に変更する案件」をきっかけに開発。「内容物充填前の空瓶は空気を高いコストを払って運んでいる、 今後はスパウト付パウチに市場がシフトしていくのではないか?」というひらめきから、製造販売をスタート。 はじめは手動機にて1日800枚のペースで細々とはじめる。その後半自動機を導入するも、当時スパウトの認知度は低く、月に半分程しか動かない状態が続いた。
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透明HD、多層フィルム製品の増産体制を確立
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ドラム缶用多面体内袋の製造販売を開始
あの頃の話その⑩ 「ドラム缶内袋」開発秘話
最初は災害用ポリタンクの代用で水を入れる用途だった。 液漏れしないようにシール接着し、原料を二層にして外れる部分とくっつく部分を作り、 変形型の立体袋を完成させる。 柔軟で高強度の低臭多層フィルムで「ドラム缶内袋」などの幅広い展開を行おうと協力会社の助言を得て、内層のチューブの低臭化に取り組む。
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第2工場(香川県仲多度郡多度津町)稼働、スパウト事業を移転、スパウト装着5号機導入
2003年に伏見樹脂の工場内で始めたスパウト事業は、 このころには大きく成長し、スパウト装着機も2023年時点で7台稼働までになった。そのことから、多度津町に伏見樹脂株式会社 第二工場を設立、稼働開始。
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オンラインストア開設
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再生機EREMA機導入